32分休符

感想を述べていこうと思います

アンドレアス・グルスキー展

 アンドレアス・グルスキー展を観に行った。写真展。

 3500円の図録を買わなかったことを、今さらくよくよと後悔している。

 その後、ちょっと高級なパン屋に寄って700円使い、さらにユニクロで2980円の赤いカーディガンを買ったのだから、それだったらあの図録を買えばよかったんだ、と。

 

 特に手元に置いて何度も眺めたい写真は2枚あって、1枚は郊外のだだっぴろいトイザらスの立体駐車場(?)を撮影したもの。もう1つはスキポール空港のロビーから外の芝生を写したもの。

 

九州のど田舎から(地元の盆踊りの歌詞には「海の向こうは上海」という一節があるが、それは真っ赤な嘘で、対岸は長崎県雲仙市、もしくは熊本県上天草市である)二十歳のときに関西に引っ越して、いちばん衝撃的だったことは、グリコの看板もけばけばしい道頓堀ではなく、平安神宮の桜でもなく、延々と続く梅田の地下街でもなく、小さ過ぎて最初のうちはパビリオンか何かだと思い込んでいた大阪城でももちろんない。

 

 私が一番衝撃的だったのは、郊外だった。ベッドタウンだった。H市、もしくはM市、T市、I市。あるいそういう町の国道脇のショッピングモールにいる、けばけばしい髪の色の、意外と幼い顔立ちをしている少年少女たち。巨大な、24時間営業のTSUTAYA。深夜でも若い夫婦に連れられた幼児が案外おとなしくお子様ランチを食べているファミリーレストラン

 田舎育ちの私にとって、都会の様子はテレビや雜誌を通じて既におなじみだったけれど、郊外は全くの未体験だったのだ。好きではない、と最初に思い、しかし目が離せなかった。胸がざわざわした。

 

関西で、私は当初は大学のある奈良に住み、それから京都市中京区に、さらには左京区に移り住んだ。歴史があり、文化的で、しかも自分を文化的だと思っているような人間が好んで住むようなところをわざわざ選んで引越しを重ねていたのだ。今となってはいかにも過ぎてちょっと気恥ずかしいけれど、アパートの1階は大学生向けに学術書を扱う古書店だった。いつの間にか同じ左京区に住む友達も増えて、その友達はいずれも絵を描いているか、小説か詩を書いているか、もしくは音楽か芝居の熱狂的なファンだった。

私はその頃毎日17時半ぴったりに終わる仕事をしていたので、夕方、下京区の会社から左京区の自宅に戻ってくると、友達にたくさん道で出くわした。そういうことが嬉しく、また、少し誇らしくもあったのだ。挨拶がわりに面白かった本の話をしたり、これからどこかの画廊でやる個展のフライヤーをもらったり。

それは雲仙市上天草市に対岸を囲まれたわたしのふるさとには確かにないネットワークで、しかも、それを自分一人で知らない土地で築き上げたんだ、ということも無邪気に嬉しかった。

 

そういう日々の中でも、仕事で、あるいは友達の車でどこかへ遊びに行く最中に、郊外の風景を目にすることは時々あった。通るたびに、こっそりと注目していた。巨大なショッピングモールを通りかかると、もちろん私も友達もそんな他愛もないところには寄らずに、もっと鼻持ちならない、例えばヴォーリズが建築した府指定文化財の洋館を使った喫茶店だとかを目指しているのだから素通りするのだけど、私は、いつもちらっとショッピングモールの姿を確認せずにはいられなかった。特に、雨の夜など、あたりは真っ暗なのに、その周囲だけ煌々と灯りを放っていて、濡れたアスファルトといい、続々と駐車場に飲み込まれていく車のテールランプといい、目が離せなかった。

さらには、フードコートでソフトクリームを舐めている自分を想像した。だだっ広い店内の、さして座り心地のよくないプラスチック製の椅子に一人でいる私。その私は本も読まず、また小説も書いていないような気がした。私は、友達と買い物に行くと、マグカップを選ぼうが、スカートを選ぼうが、「ああ、いかにもあなたらしいわ」と大抵言われてしまい、褒められているのだかけなされているのだかわからない気持ちになるのだけれど、そういうちっぽけな(そしてこまっしゃくれてプライドの高い)「私らしさ」が根こそぎダイナミックに破壊されてしまうような郊外、もしくはベッドタウンという場所に、抜き差しならない、奇妙な憧れと漠然とした不安が入り混じった気持ちを持っている。

 

アンドレアス・グルスキートイザらスの写真は、曇り空の下にある白い巨大な建物、トイザらスを外から撮っていて、おなじみのカラフルなロゴが片隅に写っている。建物があまりにも巨大なので、ほとんどそれだけだ。それだけなのに、見る人に、確かにこの光景を私はかつてどこかで何度も見たことがあり、そして、そのたびに憧れと不安を抱いていたな、と気づかせる。少なくとも私はそうだった。

 

もう1枚のスキポール空港の写真はもっと上品だ。空港内の床はいかにもオランダらしく清潔で塵一つ落ちておらず、感じのいい枯れたチョコレート色。磨き抜かれた壁一面の窓から、空港の外の芝生が見えている。先ほどのトイザらスの写真と同様、人物は写っていない。それでも、やはり何か差し迫ってくる迫力がある。

 

先日、そのほとんど愛憎半ばする郊外の話をちらりとしたところ、あっさりと一言、

「見ているのが好きなんだね」

 と、特に嫌味なわけでもなく、素直な調子で即答されてしまった。結構ショックだった。

 私はいつまでも見ているだけなのかな、と思う。空港から外へ出て離陸しようとはせず、ショッピングモールを通りかかる車のドアからもとうとう降りずに、ちょっと見て、ちょっとドキドキして、終わってしまうのか。

 

 3500円握りしめて、もう一度行かなければ。